2つの業種を同時にこなそうとした歴史上の4人の音楽家たち(2016年12月31日)

今まで音楽の人生を歩んできた中で、関心によりまたは必要に迫られて(例えば経済的に)ほかの仕事をしようと思ったことはありますか?
私がロンドンにいた頃、ある日友人の1人が私に「音楽をやめて日本に行って禅を勉強する」、と言ったのを聞いて驚いたものです。冗談ではなかったようですが。
(私も含めて)人間は若い頃は特に突飛なことを考えるものです。判断力と思慮に欠け、理性的に考えれば無理とわかるようなことを本気でやろうとします。だいぶ前に私も、絵画を描いたり、歌を歌ったり、作曲したりもしたいとか思ったことがあります。そうやって有名人になりたいと思ったりするのです。
確かに、今の時勢で一筋で大成功するのは簡単ではないかもしれません。何か他のものを掛け持ちしながら稼いでいこうというのが多いのはリアリティーです。生活を立てるために、もちろん多少のやりたくないこともやらなければならないでしょう。
しかし生活に必要なお金を稼ぐことに終始するだけの貢献度で地位や名声を築けるはずがありません。商売として儲かるからといって、テレビに出てくる”人気”アーティストでさえ自分自身でも好きでもないような音楽(フュージョン、パンク系、ロック、ポップなどをクラシックと混ぜたようなもの)で溢れかえる現代の事情には溜息が出るばかりです。それなのに、かたやもう一方では尊敬される素晴らしい音楽家でありたいと、偽善的というかエゴでもあります。
偉大な事を成し遂げるには、献身と根気が欠かせません。尋常ではないレベルの献身です。言葉で説明するのは不可能で、肌で感じるしか道はないため、その感触を常に毎日意識することが多くの人にとって難しいわけです。
ということで、今日は音楽家でありながら他の業種に手を出した4人の人物を取り上げます。

 

1.アレクサンドル・ボロディン (1833~1887)

ロシア5人組の1人として一応知られている作曲家ボロディンですが、オペラ「イーゴリ公」の「ダッタン人の踊り」や交響詩「中央アジアの草原にて」以外の曲は今日ほとんど耳にすることも評判になることもありません。幼い頃から音楽教育に関心を示すとともに、少年時代から化学に熱中し始め、将来は化学者にもなりたいと夢見ました。1856年にペテルブルグ医科大学の薬学科を卒業後、第2陸軍病院の医者となり、その後公務に追われる多忙な人生が続きました。いつも化学研究の仕事が優先されていたようで、彼の最初の交響曲が完成したのは彼が34歳のときでした。母校の医科大学の教授となった後も化学界ではかなりの功績を遺したものの、イーゴリ公のオペラは未完のまま世を去り、悔いの残る(?)音楽人生となりました。

2.ジョバンニ・ヴィオッティ (1755~1824)

ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲はほとんどのヴァイオリン奏者が演奏したことのある曲です。ピアノでいうとブルグミュラーかクレーマーの練習曲みたいなものでしょうか。イタリア・トリノでコレッリの孫弟子にあたるプニャーニに師事した彼は、スイス、ドイツ、ポーランド、ロシアなどを演奏旅行しましたが、特にパリでのコンセール・スピリトゥルでの演奏が功を奏したのか、29歳でベルサイユ宮殿のあのマリー・アントワネット王妃に仕える宮廷音楽家となりました。しかし、それも長くは続きませんでした。1792年のフランス革命後ヴィオッティは政治的にも経済的にも不利な立場に置かれました。ロンドンへ渡り(政治的疑惑で一時ハンブルグ追放)、なんとワインの取引商売を始めました。なんとかお金を稼ぐ必要に追われていたヴィオッティは何か行動を起こさなければならなかったのです。しかしこのことによる代償は大きく、フランスでのオペラ活動を断念せざるをえなくなりました。一方でロンドンでのワイン事業も長く続かず失敗に終わり、不遇のまま69歳で死を迎えました。

3.ムツィオ・クレメンティ (1752~1832)

親戚のオルガン奏者から音楽の手ほどきを受け、7歳にして通奏低音を学んだクレメンティは、14歳にして準貴族P. ベクフォードと共にイギリスへ渡り、1733年にロンドンで演奏家としてデビューするまでの間ドーセットで音楽教育を続けました。ロンドンのフィルハーモニック協会の常任指揮者に就任し、交響曲を書いたりしました。ヨーロッパでの演奏旅行中にはモーツァルトとの競演もあったようです。しかし、1798年頃から楽譜出版社に出資し、経営に参加し始めました。やがては会社そのものを手にし、会社名に自分の名前を冠するに至りました。その後はピアノ教師・製作者として活動していましたが、1820年代には引退しています。

4.ジョアキーノ・ロッシーニ (1792~1868)

19世紀のイタリア・オペラ界、オペラ・ブッファ(喜歌劇)とオペラ・セリア(悲歌劇)をともに支配したのがロッシーニでした。「セビリアの理髪師」、「オテロ」、「ウィリアム・テル」などが代表作で、生涯で30以上のオペラを生み出したと言われています。その反面で、彼の美食に対するあこがれ・執着は、彼の人生を翻弄していきました。ロッシーニが作曲したピアノ曲の中には、「4つのデザートと4つの前菜」という名前のついた曲集があるようです。それだけはなく、37歳で「ウィリアム・テル」を最後に主要な音楽界からは引退し、パリでなんと高級レストランの経営を始め、自ら料理人となって、牛肉のフォアグラとトリュフなどを世に広めていきました。ロッシーニはデブの割にはマダム・キラーであったようで、大変社交的でメンデルスゾーン、シューマン、ベルリオーズなどのような音楽界の重要人物や上流社会の人々との親交も深かったため、彼らに料理を振る舞うことも多くありました。ワーグナーがロッシーニの自宅を訪問した際に、オペラの話題を熱心に語るワーグナーを気にも留めず鹿の肉の焼き加減を確かめるために部屋を度々出入りしていたという逸話がありますが、音楽からの引退はあっても「美食」からの引退は生涯通じてなかったようです。
ロッシーニはともかく、他の3人はほとんど話題に上がりません。彼らは2つの異なる事業を同時に成し遂げようとして利害が相反しため、音楽家として後世に大きな影響を及ぼすような献身的な活動ができなかったのではないでしょうか?ロッシーニの場合でも、料理に熱を出し過ぎたあまりに早く引退し、人生の後半は音楽家とはいえないような状態になってしまいました。
彼らには間違いなく才能がありました。ただ、音楽に100%集中することができていれば、21世紀の我々にもっと多くの遺産を残せていたはずです。作曲家にとって、質の高い曲をたくさん書くことこそが歴史に名を刻む最高の方法です。「好きこそ物の上手なれ」という言い回しがありますが、これは個人的にはあまり十分な教えではないと思います。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、ホロヴィッツ、ミルスタイン、カザルス、カラヤン、バーンスタインなどをみればわかるように、彼らは自分が世界一の芸術家でなければならないと確信し、そうなる以外の結果を許すことはありませんでした。音楽がまさに天職(神から与えられた任務)であり、好きだとか楽しいという感情をはるかに超えた、世界を轟かせるという運命をすでに現実であるかのように捉えるほどの信念がありました。今日我々はいつまでも彼らを尊び語り継ぎ、いまだ忘れ去られる気配はありません。もちろんこれはやや主観的な見解で、本当に彼らが世界一なのかどうかというのは実際には誰にもわかりません。しかし、文字通り心身と魂を全て注ぎ込む超献身的な精神があってこそ成し遂げることのできる偉業であることは間違いありません。

 

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