ウイーン音楽 vol.1 ― ワルツ① (2017年6月12日)

「ウィンナー・ワルツ」と聞いて多くの人が思い浮かべるのはおそらくヨハン・シュトラウスⅡではないでしょうか。
私もシュトラウスとのイメージの結びつきはありますが、それだけではなく実際に上流階級の人々がオーケストラの音楽に合わせて踊ったりシャンパンを片手に打ち解けて話したりする舞踏会のイメージもとても強いものです。(日本でも明治維新後にヨーロッパの文明が入ったとき、鹿鳴館という場所で社交的パーティーが開かれていたことがありました。)
お察しの通り、ウィンナー・ワルツには固有の文化的経緯や様々な逸話などが存在しています。ワルツを理解するための第一ステップとして、それらを紹介していきます。
蛇足となりますが、公演も間近に接近してきていますので、来場予定でまだ席を予約していない方は、お早目に!
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6月18日(日)のカフェ・モンタージュでのウィーン音楽コンサート『ウイーン流儀』のが1週間以内に迫りました。

=>http://www.cafe-montage.com/prg/170618.html

ウィーン出身の作曲家やウィーンと深い関わりのある音楽を中心に構成したプログラムで、1時間の密度の濃い音楽会となりそうです。席数は40までで、満席になり次第予約受付は締め切られます。忘れずに予約しましょう!
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さて、ウィンナー・ワルツに話を戻しましょう。
主に19世紀頃のウイーンにおける公共のホールでの演奏会は、そこそこの出来ばえでした(1826-7年度の公演数は111にものぼるといわれています)が、当時の大衆に最も人気のあった音楽の楽しみ方は舞踏会、または社交ダンスを通じてでした。姿勢を正して座って真剣に音楽を聞くというよりは、むしろ軽いお喋りを交えた社交的・パーティー的なものが流行していました。踊ることにかけては大変熱心だったウイーンの人々にとっては、いわば頭から離れない「ウイーン人願望」となってさえいました。
私が今読んでいる「ビーダーマイアー時代ウイーンの音楽生活」(アリス・M・ハンソン著)によれば、舞踊は明らかにウイーンの恰好の娯楽であり、官能的なワルツはウイーン人気質の心底の真髄を反映しているといいます。
そこで、ウイーンの舞踏会のダンスについて知っておくべきことが主に3つあります:

 

1. 舞踏の決まり事

舞踏会というのは、実はオーストリア王国の法令によって厳密に管理されていたのですが、ご存知でしたか?一般公開されている舞踏会は、安全上の理由で事前に警察当局の許可を得ていなければならにというものがありました。これは全ての娯楽行事に共通していましたが、数年後に改正された法では私的の舞踏会であっても警察の承認がなければ開催できないこととなりました。そのため、舞踏会が開かれる晩には警備員が雇われ、会場の外で各々の所定の位置につき交通整理や治安の維持などを行いました。私邸の周りにも警備員が経つとは、ものものしい光景ですね。定刻の閉鎖時間に建物から退去しないダンサーや音楽家は、罰金を科せられたり、警察に拘束されることとなっていました。
それから、一年を通して舞踏会の開催が認められた日は制限されていました。どのように制限されていたのでしょうか?それは次のような日です ― 受難節(灰の水曜日から復活祭後の最初の日曜日まで)、降臨節から公現祭にかけて、聖霊降臨祭祝日、キリスト聖体の祝日、聖母祝祭、王室の生誕記念日、そして喪中期間など ― つまり、宗教的な記念日や祝日ではすべて舞踏会の開催は禁じられていたということです。そしてこれは非キリスト教市民にも適用されました(法廷はユダヤ人に対して受難節中の舞踏会の禁止を命じています)。ある招待されたパーティーで作曲家のシューベルトが、舞踊曲を含む自分のピアノ曲を役者と伴に披露した際、通りがかりの警視総監に受難節期間の舞踊曲をやめるように警告されたという記録も残っているほどです。

2.社会的・商業的重要産業としての舞踏会

パーティーや社交的イベントには相当の経費が掛かるのが当然ですが、200年前のウイーンでも舞踏会にかかった費用は大きかったようです。1824年のアポロザールでの舞踏会に関する資料によると、この舞踏会の場合の支出は408.00 fl. (フロリン)でした。これを当時の日本円に換算すると、1 fl. (フロリン)=200円~250円として、全体の額は少なくとも81,600 ~102,000 円ほどになります。そしてこの金額は、当時の低所得労働者(工場の労働者など)の年収(80~300 fl. )よりも高いものでした。
それでは、いったい何にこれほどのお金がかかったのでしょうか?
正解は、宣伝費用でも食事代でも音楽家のギャラでもありません。
最大の出費元は蝋燭(ろうそく)でした。
そうです、蝋燭だけで140 fl. かかっていたのです。正確に計算すれば、これは全体の42%に当たることになります。楽長の年間給料に等しいわけですから、いかに大きかったかがわかります。
しかしながら、出費が大きくなれば収入も大きかったことも事実なのです。存在する資料からは、どの年月を比較しても必ずといっていいほど収入が支出を上回っているデータが残されています。例えば、1834年2月6日および11日にホーフブルク宮殿内で行われた仮面舞踏会では、歳出は合計で1,994.46 fl. だったのですが、元々の歳入額は10,212.48 fl. だったため、結果として8,218.02 fl. もの収益を挙げることに成功したわけです。たった2回の舞踏会でこの金額ですから、侮れません。5000人分超のチケットが売られ、それぞれの参加客がそれぞれの動機でこの舞踏会に参加しており、様々な利点があったことも確かです。例えば、外交的密談、宮廷へのひそかな企て、(男女間での)多情な戯れ、そして婚約の申し込み、などなど。

著書にあるジョセフ・トゥローヴァの証言によれば、これらの舞踏会はウイーン市民にとっての行楽地としての評判を得て、また既婚者や未亡人たちの溜まり場にもなっていた、とのこと…。

 

3.税

ウイーンでの舞踊や舞踏会に関して知られていないもう一つの事柄があります ― それは、公私かかわらず音楽代として音楽家が支払わなければならない税金で、これはチケットの料金とは別でした。この税金は「音楽賦課金」と呼ばれ、1人当たり15 kr. (クロイツェル)と定められていました。そのほかウイーンでは、レストランなども舞踊曲を扱う場所は全てこの音楽賦課金として舞踊曲に対する税金を課されており、金額はそれぞれ公共の場所で4 fl. 30 kr. 、私邸での舞踏会では6 fl. となっていました。年間を通して音楽賦課金の支払われた額を一覧にした表を参照すると、主に春以降から夏の終わりにかけてまでは金額が低いのに対して、秋の11月頃から翌年の2月か3月まではそれが4倍、5倍ほどに大きく膨れ上がっていました。これは、参加客が多く訪れ舞踏会が大盛況だったことを意味します。もちろんこれは、受難節などの宗教的記念日による規制とも関連しています。
こういった舞踏会の繁盛ぶりは、舞踊曲を提供する作曲家の側としても好都合でした。中でもシューベルトは、1822年から1828年にかけて毎年のように謝肉祭などの特別な機会において演奏するためのワルツやギャロップ、カドリール(フランス起源の4人組の踊り)を作曲しました。ヨハン・シュトラウスⅡは、後にウイーンの舞踊音楽をよりいっそう洗練された水準へと高めたというわけです。
ここまで、ウインナーワルツや舞踊そのものの発展の裏にあるものは何かということに関して触れてきましたが、いかがでしたか?次回はワルツがウイーンでどのようにして踊られていたのか、またワルツがもつ内面的意味について語っていきます。

 

 

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