近代音楽 VS 一般音楽 (2018年2月28日)

2018年はすごい年になるだろうと思っていました。

それは間違いでした。

なんと、すごい、なんてものではありません。

度肝を抜かれたような、ノックアウトを喰らったような、まさにのような船出になっています。

次から次へと洪水のように押し寄せる仕事量の莫大さにしばしあっけにとられ、今日が何日か何曜日だかさえ全くわからなくなってきている日々です。

2月終盤までの一連の活動を振り返ると:
1月の頭からシューベルトの交響曲2曲に加えてモーツァルトのクラリネット協奏曲を1週間に渡ってプローヴァを繰り返していました。その後の1月中旬に大阪に戻ってきてからは、神戸でのレクイエムプロジェクトに始まって、ザ・シンフォニーホールでのプロコフィエフ・ヴァイオリン協奏曲、そして京都と東京での長岡京室内アンサンブルに加わっての演奏(モーツァルト・ディヴェルティメント全3曲、ドヴォルジャークの弦楽セレナーデ、ブリテンのシンプルシンフォニー)が2月の初旬にあり、その2日後にはお気づきの通りここイタリア・ミラノに帰還して、「アンサンブル・ベルナスコーニ」という名の室内合奏団でのコンサートマスターやソロとしてF.シュレッカー(1878-1934)やデュフォール(1943- )の作品のリハーサルにとりかかり、2週間前の木曜日にコンサートがありました。今はアルバン=ベルグ(1885-1935)の作品のリハーサルが始まったところです。
ということで、大雑把にいえば前半は古典・ロマン派中心でしたが、後半はもっぱら近現代曲(20世紀・21世紀)を取り扱っているということです。
(上記にコンサートマスターと書いていますが、世界的には”リーダー”と呼ぶこともよくあります。ただ、役割としてはチューニングの合図を出したり弦楽器のボーイングなどを決めたり、その他稀に重要な局面もありますが、特に全体を取り仕切っているわけではありません。一方指揮者は全パートを見渡すことができるスコアを持っており、それを前提に、リハーサルを円滑に進めるための一切の指示を出し、楽団全体が完全に統一されるまでにあらゆる方角に神経をはりめぐらせ、機転を利かせて上手くまとめていかなければなりません。これが”リーダー”の役割で、コンサートマスター=リーダーではないというのが私の考えです。)
いかなる音楽においても - それがバロックであれ現代であれ - 、作曲家が作品に込めた意図よりも優先されるべきものはないという概念は音楽家にとって古今東西原則のようなものです。聴衆に最も伝えなければならないのは音楽に込められたメッセージであり、それは曲想表示以外に細かい記号や記譜などあらゆる形で暗示されており、それらが目指された一つのイメージや効果を生み出すために楽譜に存在しているのです。
音楽や芸術である限り、多くの作品や作曲家に類似点があるのは当然のことです。それぞれが特定の環境や文化の中で育ち、互いに影響し合っているわけですから、意図的でなくとも共通した部分が出てくるのはむしろ自然なことなのです。メンデルスゾーン(1809-1847)を反ユダヤ主義の標的として散々攻撃したワーグナー(1813-1889)の作品にさえ、メンデルスゾーンの交響的特徴や符点のリズムなどが頻出しており、メンデルスゾーンからの影響を否定することはできなかったということです(例:タンホイザー序曲https://www.youtube.com/watch?v=LTyj856BtWY)。しかし一方で、全く同じ音楽や作曲家というのは存在しないのも事実です。それぞれが大きくもしくはわずかに異なった独自のスタイルや音の世界をもっており、それらを理解せずに演奏したりすることも、他の作曲家のスタイルを別の作曲家の音楽に転用することもできません。
 西洋音楽は19世紀、20世紀を起点に、音楽史上最も顕著な変化をもたらしたワーグナーやシェーンベルグ(1874-1951)、ウェーベルン(1883-1945)らによって大きく進展しました。20世紀になると、それまでの音楽とは異なって、不完全協和音程や不協和音を多用したものや、調性のない無調音楽などが現われ始め、また記譜方法にも著しい変化がみられるようになります。私たちが当たり前のように接するバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンなどの作曲家が必要最低限のダイナミックやテンポ表示しか与えることがなかったのに対して、ロマン派期以降の音楽ではダイナミックのみならずテンポ表示、拍子の変化、調号の変化や転調、複雑なリズム、音色の指定まで全て書かれています。
例えば上にあるデュフォールのL’Amérique D’Après Tiepolo” (『ロココ様式以後のアメリカ』という意)という曲では、ご覧の通りヴァイオリンの譜面に冒頭からすでにハーモニクスの演奏方法についての記述がされています。そして、このハーモニクスが半音ずつ上昇していき、p もしくは mp から f までの広い強弱の範囲をもって、急速に荒れ狂っていきます(本当にそんな雰囲気です)。その過程で┌ 3:4 ┐などの表示がついたややこしい小節(3拍子の中に4拍分の音符が入るという意)が連発されて、拍子の変化もまた頻繁になっています。これが最初の1ページ目に起こることですが、この曲は全部で13ページなのでまだまだ煩雑な展開が続くわけです。
L’Amérique D’Après Tiepolo” は、2016年に書かれており、完成からまだ2年しか経っていない、超新曲(!)。作曲者のデュフォールは似たような名前の曲を他に複数書いているようで、”L’Afrique D’Après Tiepolo” (ロココ様式以後のアフリカ)、”L’Asie D‘Après Tiepolo” (ロココ様式以後のアジア)などがあり、作風も共通した部分が多くみられます。美術と関連した題材ではあるものの、実際の絵画を表わしているものではなく、真意は不明です。
この曲をリハーサルした際には、音楽的概念を具現化するために、細心の注意を払って譜面に書かれた全ての事を忠実に音に換えることにほとんどの時間が費やされました。音列は極めて複雑に書かれており、時には演奏不可能なものまであります。しかし、演奏者の役割としてはあくまで、たとえ演奏不可能なものでも、別の解決策を模索して譜面の内容を形にしなければなりません。これが現代音楽においての演奏家の最大の苦悩です。一般的な音楽のように単純明快ではない現代音楽は、全てを音にしてから始めて曲の全体像と雰囲気をつかむことができるのです。
それに対して古典音楽は、比較的シンプルに書かれています。作曲者自身が詳細な指示を出したりするのではなく、必要最小限の事柄以外のことは演奏者の解釈に任せており、行間を読むということが非常に重要になってきます。なぜなら、楽譜というのはあくまで一つの「ガイドライン」のようなもので、作曲者の真意は「書かれていること」よりも「書かれていないこと」に秘められているからです。もとより多くの作曲家が音楽以外の手段で物事を描写することそのものを好まなかった背景もあります。メンデルスゾーンも、言葉というのは物事の捉え方次第で無限に変化するゆえにむしろ曖昧だが、音楽自体の意味は至って明白であり、それを聞けば何を表わしているのか誰でも簡単に理解できる、と述べています。

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