ウイーン音楽 vol.2 ― ワルツ② (2017年6月15日)

ウイーンという街において、ワルツほど大衆の人気を得たものはないでしょう。 あなたはどう思いますか? 実際のところ、『ビーダーマイアーの音楽生活』の著者であるアリスM.ハンソンは、宮廷の内部の人たちは全く踊ることはなく、貴族でさえも踊ることがあるとすれば穏やかで礼儀正しいカドリールくらいで、19世紀に舞踏ダンスが流行ったのは中流階級や低層階級の人々の間だったと述べています。 これはとても重要な事実です。なぜなら、今日の多くの人々の憶測などでは残念なことに「ワルツは上流社会にのみ通じた高尚な習慣」と位置付けられがちで、もとよりヨハン・シュトラウスⅡの音楽にみられる洗練さがこの誤解を生んでいると考えられます。ワルツは上流階級の人々ではなく、それ以外の一般大衆に向けられたものだったということなのです。 ではなぜ上流階級の人々の間では踊られなかったのでしょうか? 上記の著書中に出てくるグラスブレナーは、ウインナー・ワルツを性的狂乱、死の舞踏と形容したうえで、その理由を詳細に表現しています:  「… しかし、この熱狂はすでに退廃した。そこにいるのはもはや舞踊家ではなく、単なる飲んだくれの連中である。女たちは男の手が触れるなり熱っぽく感激に震え、そして自分の胸を男に押し付けるようにしたり、顔を男の肩に寄り掛かけさせることで抱きかかえられ、男の一つ一つの動き様と淫らな音楽に豊満に酔いしれていた; 哀願するかのように天真爛漫さは広間から恐れ逃げ去り、かわって女らしさが懇願するかのように心酔し、そして死が片隅でほくそ笑むのだ。」 端的に言えば、ウインナー・ワルツは踊り手どうしの体の距離が近く、唆すような回転や不健全な動きを理由に物議を醸すものだったということです。ですから、上流階級や宮廷内の人たちにとっては、悪い噂が広まりかねないタブーといった感じだったのでしょう。 ウイーンにはダンスホールが30件ほどあり、それらの多くは都心部からやや離れた郊外に位置し、中流階級や低層階級の家庭にまかなわれていました。舞踏会は全世代にとって、知り合いや友人をつくったりすることのできる素晴らしい社交的機会でした。 舞踏会は多くの場合午後8時か9時頃に始まり、なかでも日曜日はたいていの労働者にとっての唯一の休日であるためひどくごった返し、カップルや子供、家族で溢れかえっていました。軽い飲食物もあり、ポンチ(ぶどう酒に水または湯・砂糖・レモン・香料などを入れた飲み物)、果物、氷菓、キャンディーなどが夜通しあり、真夜中になると夜食が出され、踊りは早朝の3時か4時頃まで続きます。 服装規定としては、男性は黒の礼服に絹のズボン、黒の靴下、モロッコ皮革の靴といったぐあいで、女性は舞踏会用ドレスに最高級のダイヤや花を添えるのが通例でした。 ワルツは日本語で円舞曲ともいいますが、上記にある「美しく青きドナウ」op.314 のように、決まって4分の3拍子です。ただし、ワルツの前に前奏がある場合は、その前奏は4分の3拍子で始まらないこともあります。皇帝のワルツでは、前奏が2分の2拍子で始まっています。そこだけを聴けば、ワルツというよりはむしろポルカのように聞こえますね。 たいていのワルツは、全体の中で複数のワルツがまとまってできた3部構成になっており、転調や自由なテンポ奏法を繰り返し次々と新しいワルツへと進行していき、最初のワルツに戻って終結部を迎えます。 ウインナー・ワルツには顕著な特徴が主に2つありますが、それは何かというと、風変りな拍子感 と ルバート奏法 です。 ではまずルバート奏法からいきましょう: 上記の譜面の1小節目に赤色で波線が引いてあります。これらの3つある4分音符は、ワルツ第1番の冒頭にとってのアップビート(弱起)で、これから何か素敵なことが起こる前触れとして大切な役割を果たします。曲の中の他のワルツでも、この弱起がある場合にルバート奏法を用いると、とても効果的です。この弱起をゆっくりとたっぷり弾くことでワルツに入る時に余裕をもたせるのですが、これには管弦楽の団員1人1人が自ら歩調を合わせ、どの程度引き延ばせばいいのかというバランスを丹念に完成させる必要があり、指揮者が単純に拍を示すのではこのような特殊なニュアンスは引き出すことはできないのが難しさなのです。そして、ワルツが始まってからも、直前のルバートの影響で出だしはゆったりと様子をうかがうような感じで進み、ごく自然に本来のワルツのテンポに戻していきます。内気で遠慮がちな人が、最初はぎこちないものの会話しているうちに徐々に打ち解けていくような感じです。 そして拍子感: ウインナー・ワルツでは、伴奏型のパートが4分音符で拍を刻んでいる場合、2拍目を先取りすることでその後と3拍目、すなわち弱起に余裕をもたせることができます。ウインナー・ワルツならではの巧妙な隠し味で、他の通常の3拍子の楽曲との明確な違いです。空中で天に向かってボールを投げてその反動に多少の時間がかかるのと似ています。2拍目の先取りは、度合が少なすぎると変化を生み出せず、多すぎると今度は4分の3拍子の体系をぶち壊してしまいます。先ほどのルバートと同様、指揮者が精密にこの拍感を反映することはできず、演奏者それぞれが自ら自然にワルツの3拍子を表現するための独特のウイーン風技法を身につけなければなりません。 「春の声」という、シュトラウスがソプラノと管弦楽のために書いた別のワルツがあります。これも他のウインナー・ワルツと同様の形式をたどっています:   これは数年前にピアノとヴァイオリン独奏にサイモン・フィッシャー(私の師)によって書き換えられた版で、現在はペーターが出版・発行しています。来週18日(日)の公演では残念ながらこの曲を取り上げることができないこととなったのですが、個人的には英国に住んでいたころに、ギルドホールでの修了リサイタルで演奏したこともあり、国内外でもこの編曲は出版されて以来公開演奏されていなかったため、事実上私が初演したことになります。オリジナル版(ソプラノ+管弦楽)を聞くと参考になるかもしれません(ソプラノはキャスリーン・バトル、管弦楽はウイーンフィルハーモニー管弦楽団、指揮はカラヤン):  

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ウイーン音楽 vol.1 ― ワルツ① (2017年6月12日)

「ウィンナー・ワルツ」と聞いて多くの人が思い浮かべるのはおそらくヨハン・シュトラウスⅡではないでしょうか。 私もシュトラウスとのイメージの結びつきはありますが、それだけではなく実際に上流階級の人々がオーケストラの音楽に合わせて踊ったりシャンパンを片手に打ち解けて話したりする舞踏会のイメージもとても強いものです。(日本でも明治維新後にヨーロッパの文明が入ったとき、鹿鳴館という場所で社交的パーティーが開かれていたことがありました。) お察しの通り、ウィンナー・ワルツには固有の文化的経緯や様々な逸話などが存在しています。ワルツを理解するための第一ステップとして、それらを紹介していきます。 蛇足となりますが、公演も間近に接近してきていますので、来場予定でまだ席を予約していない方は、お早目に! ================================================================================================== 6月18日(日)のカフェ・モンタージュでのウィーン音楽コンサート『ウイーン流儀』のが1週間以内に迫りました。 =>http://www.cafe-montage.com/prg/170618.html ウィーン出身の作曲家やウィーンと深い関わりのある音楽を中心に構成したプログラムで、1時間の密度の濃い音楽会となりそうです。席数は40までで、満席になり次第予約受付は締め切られます。忘れずに予約しましょう! =================================================================================================== さて、ウィンナー・ワルツに話を戻しましょう。 主に19世紀頃のウイーンにおける公共のホールでの演奏会は、そこそこの出来ばえでした(1826-7年度の公演数は111にものぼるといわれています)が、当時の大衆に最も人気のあった音楽の楽しみ方は舞踏会、または社交ダンスを通じてでした。姿勢を正して座って真剣に音楽を聞くというよりは、むしろ軽いお喋りを交えた社交的・パーティー的なものが流行していました。踊ることにかけては大変熱心だったウイーンの人々にとっては、いわば頭から離れない「ウイーン人願望」となってさえいました。 私が今読んでいる「ビーダーマイアー時代ウイーンの音楽生活」(アリス・M・ハンソン著)によれば、舞踊は明らかにウイーンの恰好の娯楽であり、官能的なワルツはウイーン人気質の心底の真髄を反映しているといいます。 そこで、ウイーンの舞踏会のダンスについて知っておくべきことが主に3つあります:   1. 舞踏の決まり事 舞踏会というのは、実はオーストリア王国の法令によって厳密に管理されていたのですが、ご存知でしたか?一般公開されている舞踏会は、安全上の理由で事前に警察当局の許可を得ていなければならにというものがありました。これは全ての娯楽行事に共通していましたが、数年後に改正された法では私的の舞踏会であっても警察の承認がなければ開催できないこととなりました。そのため、舞踏会が開かれる晩には警備員が雇われ、会場の外で各々の所定の位置につき交通整理や治安の維持などを行いました。私邸の周りにも警備員が経つとは、ものものしい光景ですね。定刻の閉鎖時間に建物から退去しないダンサーや音楽家は、罰金を科せられたり、警察に拘束されることとなっていました。 それから、一年を通して舞踏会の開催が認められた日は制限されていました。どのように制限されていたのでしょうか?それは次のような日です ― 受難節(灰の水曜日から復活祭後の最初の日曜日まで)、降臨節から公現祭にかけて、聖霊降臨祭祝日、キリスト聖体の祝日、聖母祝祭、王室の生誕記念日、そして喪中期間など ― つまり、宗教的な記念日や祝日ではすべて舞踏会の開催は禁じられていたということです。そしてこれは非キリスト教市民にも適用されました(法廷はユダヤ人に対して受難節中の舞踏会の禁止を命じています)。ある招待されたパーティーで作曲家のシューベルトが、舞踊曲を含む自分のピアノ曲を役者と伴に披露した際、通りがかりの警視総監に受難節期間の舞踊曲をやめるように警告されたという記録も残っているほどです。 2.社会的・商業的重要産業としての舞踏会 パーティーや社交的イベントには相当の経費が掛かるのが当然ですが、200年前のウイーンでも舞踏会にかかった費用は大きかったようです。1824年のアポロザールでの舞踏会に関する資料によると、この舞踏会の場合の支出は408.00 fl.

ウィーン音楽月間 (2017年5月18日)

========================================================================================== 6月18日(日)のカフェ・モンタージュでのウィーン音楽コンサートの予約受付が今日からスタートです。 =>http://www.cafe-montage.com/prg/170618.html ウィーン出身の作曲家やウィーンと深い関わりのある音楽を中心に構成したプログラムで、1時間の密度の濃い音楽会となりそうです。席数は40までで、満席になり次第予約受付は締め切られます。忘れずに予約しましょう! ========================================================================================== そもそも、このウィーン音楽月間とは何なのか?どのようにして始まったのか? 数か月前、カフェ・モンタージュのオーナーの高田さんと次回のプロジェクト企画について議論していました。私は以前からウィーンに焦点を当て、ウィーンの音楽だけを特別に集めたコンサートシリーズを熱望していました。その理由は2つ: 1.ウィーンという街は非常に特殊で魅力的でもありながら、私たちが目にするものといえば、テレビでのドキュメンタリー番組や恒例のニューイヤー・コンサートくらい。それ以外でウィーンの音楽にさえ接する機会がないといのが日本の大半の人たちの現状です。ましてウィーンの人たちの暮らしがどんなものかを知っている人たちはかなり少ないということでしょう。 2.とはいえ、私の個人的な感想としては、カフェ・モンタージュのある京都とオーストリアのウィーンは似ている所が多いと思うのです。どこが似ているのか、については今後のブログでも詳細に書いていきますが、音楽や芸術を学び研究することで、この両者は予想外に共通点が多いということに気付くことになるのではないかと思います。   その後話し合いを重ねた結果、様々な具体的案やリストアップしたい曲目などが多数候補に挙がり、とても1回や2回の公演では扱えないということで、このウィーン音楽祭とやらの代物が誕生したわけです。そのため、6月18日の公演にはない数々の曲も、この一連のウイーン音楽祭の中で取り上げられています。 ウイーンや更にはヨーロッパに渡航する機会に恵まれない人たちにとっては、音楽・芸術の世界でウィーンという街を散策する絶好のチャンスです。この音楽祭が終了した頃には、あなたのウィーンに関するイメージや感じ方は大きく変わっていることでしょう。ウイーンへ旅立つきっかけにさえなるかもしれません。 まずは手始めに、この6/18公演でウィーンの本格的音楽を体験してみてください ==>「ウィーン流儀」6月18日(日)20:00 またウィーンについては様々な角度から事細かにブログで特集する予定です。 松川暉

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