ラ・フォル・ジュルネ2017 (2017年4月29日)

桜で盛り上がった4月もいよいよ終盤に来ました。(外国ではキリスト教国中心に復活祭Easter、ユダヤ教徒中心に過ぎ越し祭りPassover[英]/Pesach[ユ] の季節 ) このブログでは音楽や音楽家、音楽人生、楽曲などについて記すことが多いのですが、今日は簡潔に私が出演するイベントについて紹介しておきます。 現在滋賀県琵琶湖ホールでは、毎年恒例のラ・フォル・ジュルネ音楽祭が開催されています。今年は4月27日から30日まで行われており、著名な音楽家がこれまでに多数出演して、参加したことがあるという人もかなりいるだろうと思います。 この音楽祭は関西でも有数の規模で、協力なスポンサーのバックアップもあって大盛況です。いくつかの公演ではロビーコンサートでさえ数百名の来場客もあるといいます。 明日で最後となるこのイベント。私は明日このメイン・ロビーでヴィオラの米田舞さんとモーツァルトの二重奏曲K423を演奏します。午後3時スタートです。 このロビーコンサートは一般の観衆に完全公開されており、入場も無料です。 広大な琵琶湖が広がる美しい景観をバックに、美しい音楽を奏でられるとよいですが。 ラ・フォル・ジュルネ2017 の公式ページはここから見られます =====> http://lfjb2017.biwako-hall.or.jp/  

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音楽家、そしてヴァイオリン奏者としてのメニューイン (2017年3月30日)

「音階とアルペジオをよく練習するんだよ」 まだ10歳だったユーディ・メニューインがベルギーのブリュッセルであの巨匠ウジェーヌ・イザイに出会った時に告げられた言葉です。 1926年、メニューインはヨーロッパへ家族とともに出身地であるニューヨークから飛び立ち、演奏旅行に出かけます。そこでのセンセーショナルな活躍もさることながら、当時の師であったルイス・パーシンガーから薦められてイザイにレッスンをしてもらおうとブリュッセルの彼のもとへ向かいます。メニューインはそこでラロのスペイン交響曲を演奏し、賛辞を受けますが、その後イ長調の3度の音程を4オクターヴ弾きこなせるかをイザイに試されると、やや疑念が湧き始めます。イザイは懸命に音程を取ろうとする若い少年の努力を認めながらも、彼の最も重大な弱点を見逃すことはありませんでした。(ちなみに、イザイはパーシンガーの師だったので、メニューインからするといかに大きく遠い存在であったかは明白です)   音楽家としてのメニューイン 世界中の夥しい数の聴衆の人々や音楽評論家たちが、彼の幼くして立派な音楽的才能とインスピレーションに満ちた天性を驚きと興奮をもって味わいました。10歳でニューヨーク・マンハッタンの歌劇場でデビューした時には、聴衆にヤッシャ・ハイフェッツの姿もあったのです。この頃までには既に彼の名は都市全体に広がっており、将来を託された神童という呼び声が高かったことは疑いようもありません。のちにバルトークは彼のためにヴァイオリン協奏曲と無伴奏ヴァイオリン・ソナタを作曲し、ブロッホもアボダーというヘブライ組曲を彼のために作曲しています。 映像は1965年11月のウイーンのスタジオにてのモーツァルト協奏曲5番撮影セッション。この時にはにシューマン交響曲4番のリハーサルの撮影も同時に行われている。ヘルベルト・フォン=カラヤン指揮、ヴァイオリンはユーディ・メニューイン。管弦楽はウイーン交響楽団(ウイーンフィルとは区別)。   メニューインの表現豊かな音色と雑念や混じり気のなさは、これまで誰もが認めたように、これからも認められ続けるでしょう。彼と他のヴァイオリニストたちの決定的違いは、現代のショービジネス化した音楽産業でありふれた、自分を派手に演出することや超絶技巧をひけらかすことばかりに夢中なヴァイオリニストのような高慢さや度量の狭さがなく、詩人のように自分の心を隠すことなく飾ることもなくありのままに素直に表現することができたという所にあると思います。彼も次のように振り返っています:「音楽は私にとって本当にいきいきしたものであり、表現手段の根源ともいえました。生命感のない、死んだような、きまりきった練習をだらだらとして、準備していたのでは、きっと私の音楽は、輝かしいものではなく、つまらない、息の詰まったようなものになってしまったかもしれないからです」(20世紀の芸術と文学『ヴァイオリンの巨匠たち』ヘラルド=エッゲブレヒト著より)。 死後から20年近くを経た今でも彼の偉大さは語り継がれています。   ヴァイオリニストとしてのメニューイン では、果たしてメニューインは非の打ちどころのない完璧なヴァイオリニストだったのでしょうか? 現在では技術の発達により、様々な録音と映像が保存されています。その一つ一つをよく調べると、彼に欠点がなかったわけではないということがよくわかります。もちろんメニューインも所詮人間ですから、他と同じように強みと弱みがあり、長所と短所があったのはごく当然のことなのです。 私も多くの皆さんのように幼少時代にメニューインをテレビ放送で見て過ごしていたわけですが、現代のヴァイオリニストたちは、そうしたものを通じてあまり宜しくないものも影響として受けてしまっている場合が多くあります。自身のこれまでのヴァイオリン人生の中で影響を受けているとみられる人たちを何人も見てきました。 では、私たちも気をつけなければならない彼の短所を見ていきましょう。   1.リズム感の悪さ 上にあるモーツァルトの映像で感じ取れるかどうかわかりませんが、メニューインは拍子やテンポ、リズムといったものにおいて秀でてはいませんでした。符点が入ったリズムや、同じようなリズムが連続となってパターン化された部分では幾分速くなり、均一さを保つことができていません。たとえば8分音符が連なっている小節など。音と音の間隔が短くなれば、テンポは必然的にどんどん速くなっていき、コントロールできなくなります。皮肉なのは、この対極にあるのが指揮者のカラヤンであること。カラヤンの場合はオーケストラ団員であろうと、合唱団であろうと、不正確なリズムには容赦なく喝が入ります。そして全員が徹底して同じリズムや音色を揃えて弾けるようになるまでリハーサルは終わりませんでした。このめぐり合わせというのは何とも言えないところがありますね。   2. ボーイング(運弓法)  メニューインは全体的に弓を非常に多く使っています。気になるのは時としてそれが多すぎることです。そして、弓を使う量が多くなることで、弓スピードもかなり速くなっています。特に⊓(ダウン)から∨(アップ)に切り返す際や、∨(アップ)から⊓(ダウン)に切り返す際の弓スピードはあまりに速すぎます。弓スピードが弓の切り返しで速くなるところのどこが悪いかというと、弓スピードによってアクセントが生まれることです。アクセントが必要な部分では意図的に弓スピードを速くしますが、メニューインの場合は音楽の拍子やフレーズとは関係なく弓の返しのたびに弓が速くなり、そのたびに音符にアクセントが付くことになります。私はこれを、現代を生きるヴァイオリニストの中でもあまりに際立つ現象だと感じています。   3.左手の不安定感

大舞台演奏家 Vs 小舞台演奏家 (2017年2月16日)

芸術家としてのキャリアが始まって以来、ほぼずっと考え続けていたテーマがあります。定期的に演奏会のために曲を準備する人はもちろん、そうでない人も明確にしておかなければならないでしょう。そのテーマとはこうです; 音楽の世界において、演奏家は主に次の2種類に分けられます。 大舞台演奏家 & 小舞台演奏家 ここで一言断っておきますが、ここで記述していることはあくまで私自身の演奏経験に基づく見解に他ならず、全員が賛同できるものではありません。 大舞台演奏家とは、大規模な演奏会場(客数収容およそ1000人以上)に適う音量と表現ができる演奏家をいいます。 小舞台演奏家とは、中・小規模な演奏会場(客数収容およそ50~800人程度)に限られた音量と表現しかもたない演奏家をいいます。 これはもちろん会場の大きさという点だけであって、これが適切な表現といえるかどうかは確かに疑問です。 イギリス人チェロ奏者スティーヴン・イッサーリスは、大舞台演奏家vs小舞台演奏家という枠組みにはめ込もうとすると、音楽が音楽でなくなると語っています。音響という観点は、彼の言うとおり、音楽そのものとの直接的関係はありません。実際のところ、音楽は「音」と「静けさ」の両方が統合されて初めて成り立つもので、音だけで音楽を完成させることはできません。 では、音響は一切配慮しなくていいということになるのでしょうか? いいえ、もちろんそんなことはありません。ただ念頭に置いておかなければならないのは、音のみを追求しすぎたために、最も肝心な「音楽」やそこに込められた作曲家のメッセージから精神を切り離してしまうのは、芸術家として好ましいあり方とはいえないでしょう。 それでは、音響はどのように、どの程度影響し、我々はどのように対応すればよいのでしょうか? ご存じの通り、世界には現在少なくとも1000以上のコンサート会場が整っています。それぞれが、似たような設計を基に建築されてはいるものの、形としては多様に反映されてきます。違いは様々なところから表面化します ― 天井の高さ、形状、壁や床の材質、観客収容人数、温度や湿度など。ですから、一つ一つ機転を利かせて対処していかなければなりません。我々全てにとっても、聴衆の前で演奏するコンサートホールやサロンは、独りで練習する音楽部屋とは全く違った体験です。 最悪なのは、何週間、何か月と狭苦しい部屋に閉じこもって曲を練習したあげくが、たくさん詰めかけた聴衆の前での立派なコンサートホールでの、牢屋に監禁されてでもいるかのような惨めな姿であることです。20世紀が生み出した最大のヴァイオリン教師の一人、ジュリアード音楽院元教授ドロシー・ディレイは「小舞台演奏家になってはダメ」と言い残しています。 ベートーヴェンのロマンス第1番ト長調を例に挙げてみましょう。この曲は冒頭がヴァイオリン独奏の重音の旋律で始まります。4小節後にあるのはオーケストラのリフレイン(同じ主題を繰り返す)です。オーケストラ版で演奏するのとピアノ伴奏版で演奏するのには違いあがありますし、大きな会場で演奏するのと小さなこじんまりした会場で演奏するのにも違いがありますし、益してその組み合わせともなれば影響は未知数でしょう。 演奏家にとっては、大きな舞台で演奏するということは、力強くそしてよく鳴り響く音を出すこと、または「休止」と次の「音」との間に空間を多くつくることを必要とするでしょう。私の場合は、10代初頭から大ホールでの演奏やオーケストラとの共演は頻繁にあったので、仮に自宅での練習であっても本番の舞台の規範に合った音作りをするようにしています。 2、3年ほど前に、ロンドンでのコンサートホールでの演奏会のためにヴィエニアフスキの曲をあるピアニストとリハーサルしていた時のことです。彼はそれまでに王立音楽院でジョルジ・パウクといった大御所の教師のもとで伴奏者として長年の実績のあるピアニストでしたが、リハーサルの真っ只中で彼が私に言った一言はまさに象徴的でした。「君の弾き方はまるでロイヤル=アルバート・ホールかどこかで演奏しているみたいだね」。イギリスに長く住んでいる人ならよくわかるのですが、このような言い回しは褒め言葉ではなく、たいてい婉曲な皮肉です。なので、一部には大舞台演奏家的なスタンスを快く思わない人たちももちろんいます。 結局のところ、先述の通り音楽がもつ意味というものが全てです。ヴィエニアフスキの曲にはオーケストラ版もありますが、彼はもしかしたらこの曲のスケールの大きさを理解していなかったのかもしれません。何を思って上記のように言ったのかは不明です。ただ私が心の底から強く感じるのは、編成の小さい曲(または少人数)だからと言って表現を小さくしなければならないことはない、ということです。室内楽などもそうです。むしろ、曲の編成が小さくなればなるほど演奏者個人の自由というものが生まれると同時に、非常に安定したリズム感を保持することや、存在しうる全ての和声(譜面にはなくても理論上存在するものも含む)を余すことなく表現する責任も生まれます(バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタなど)。 最後に一言。 自分が作曲家であると想像してみてください。あなたが書いている曲に込める内容に、演奏者に敢えて”小さく”表現してほしいと願うものがありますか?    

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