エルガー公演を終えて(2017年1月26日)

21日のカフェ・モンタージュ(京都)での公演がすでに終了していますが、なにも書いていなかったので、少し一言加えようと思います。 当日には、当初の40名という定員を大きく超えた54名の方々がお越しになり、コンサートは大盛況でした。お越しになったお客様にはもちろん、モンタージュ主催者や後援協力して頂いた方達にも深くお礼を申し上げます。   公演のプログラムは、J.S.バッハによるヴァイオリンとハープシコードのためのソナタ ト長調 BWV1019、そしてエルガーによるピアノとヴァイオリンのためのソナタ イ短調 Op.82 でした。 聴衆の方達からは好評も多く、公演をかなり満喫してもらえたようです。上記のプログラムを通して見せどころ・ポイントは多数あったかと思います。音色そのものを好んだ人もいれば、曲の解釈を好んだ人もいました。その中でも個人的に私にとって最も重要だったのは、私らしい独自の発想とスタイルに気づいてもらい、そしてそれを評価してもらえたことでした。この公演には、日本・フランスで長年に渡って先駆的存在とされている大音楽家・教育家、森悠子先生も同席されました。正統で厳格で納得させることは至難の業である彼女のような方から、音色とスタイル両方で賛辞を頂けたのはとても光栄でした。 私は、音楽に対して特別なこだわりがあり、自分が学んで磨き上げた美学・哲学を如何に効果的に影響させ、新しい発見を求める意欲的な人々に順応させるかを考えてきました。私の音楽へのアプローチは、多くの人々のそれとはかなり異なると思います。それ故に、すぐに受け入れることのできる人もいれば、時間が掛かりながらも最終的には受け入れることができる人、断固として受け入れることのできない人もいるでしょう。苦難も多く待ち受けています。これは辛抱強さと信念をもってこそ可能であり、しかしそれでこそ、目的を達成するに至るまでの過程というのが、私が考え得る中で唯一の最も素晴らしい宝物なのです。 公演活動はこれからもまだまだ続きます。随時更新していく予定です。 松川 暉

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エルガーについて知るべき6つの真実 (2017年1月20日)

最近「Portrait of Elgar (エルガーの肖像)」(マイケル・ケネディ著)を読んでいましたが、その中で特に興味深いと思ったものをここで紹介したいと思います。実際には他にも多数あるのですが、ここでは書ききれないので6つまでにします…。 エルガーについて知るべき6つの真実 1.エルガーには作曲を習う先生がいなかった エルガーはピアノの調律と楽譜販売業を営む家庭のもとで生まれたこともあって、手の届くところに楽譜やスコア、文献は使いたい放題ありました。中でもベートーヴェンの交響曲などはエルガーにとって大変貴重なものでした。彼は1904年にこう語っています;「スコアを勉強するにあたって、最初に手に入ったのはベートーヴェンの交響曲だった。… 交響曲「田園」を購入した日のことはよく覚えている。それを勉強しようと、ポケットにパンやチーズを蓄えて野原に出かけた、そんなところだ。」 参考にした教本は次のようなものでした。ケルビーニの「対位法」、ステーナーの「作曲と和声」、サビッラ・ノベッロ翻訳による「簡潔な通奏低音」など。 1902年にパデレフスキがエルガー作曲の「コケイン」をエットリングに紹介されたときのことでした。彼はパーティーで、パデレフスキにエルガーはどこで学んだのかと尋ねました。すると、「どこでも学んでいない」と。それなら誰が教えたのかと訊くと、「善き神だ」と答えたそうです。 2.エルガーは、不運な出来事の連続で開花が遅れた エルガーと聞くと、何やら安楽椅子に腰かけて気楽に紅茶でも飲んでいる英国人を想像する人がいるかもしれませんが、実際の彼はそれとは全くかけ離れていました。 以下はエルガーが残した20代の頃のハードな日々を書いたものです(これは公に発表されることはありませんでした)。 「私はロンドンから200km離れたところに住んでいた。朝6時に起床、駅まで2kmほど歩いて午前7時の電車に乗った。午前11時頃にパディントン駅に着き、そこから地下鉄でヴィクトリア駅、そしてクリスタル・パレス駅に着くと、リハーサルは残り45分くらいのところまで終わっていた。運が良ければ自分の望んだ曲を聴くことができるのだが、大概はツイてなくてメインの曲が終わってしまっていることが多かった。そして昼食。午後3時に演奏会。午後5時には急いでヴィクトリア駅に向かい、パディントン駅、そしてウースターに帰宅するのは午後10時30分。実に大変な一日だが、新しい曲を聴くことができたし、新たな貴重な経験ができた。」 エルガーの生涯において、問題の一つはやはりオーケストラのリハーサルだったようです。コヴェント・ガーデン遊歩音楽会(1889年?)では、招待されての出席だったにもかかわらず、指揮者が他の曲に時間を全部消費してしまい、エルガーの曲はリハーサルをできずに終わってしまったことがありました。同様のことが複数回起きました。その度にエルガーは虚しい思いで帰宅しなければなりませんでした。 1916年にキングスウェー劇場での上演のための付随音楽を依頼されたエルガーは、以前に書いた「子供の魔法の杖」の改作に意欲的に試みました。全てはうまく運ぶはずだったのですが、初演の2日前に様子を見物しにきたところ、舞台のセッティングの粗末さに彼は激怒。予定していた指揮も取りやめてしまいます。舞台担当者の友人に手紙でこう書いています。「君の友はこの劇の成功の可能性を踏みにじった。奴は舞台の知識などかけらもない、無知で間抜けな野郎だ。帰れ!」 エルガーの妻アリスは、「素敵な演技に魅力的な音楽も劣悪な舞台セッティングで台無し」と。知り合ってすぐの作家ブラックウッドも舞台セッティングを「田舎臭い、何もかもうぬぼれの駄作」と切り捨てました。 3.彼は奇妙であるとみられていた エルガーは若い頃、マルバーンの女子学校でヴァイオリンを教えていましたが、学長を務めていたロザ・バーリーは、エルガーの性格を次のように表現しています。 「不幸な人間が欲求不満や落胆する気持ちを静めるときのある種の強い自尊心が、内気さによって隠されていました。…私にとっては、彼の情緒的反応はちぐはぐであるように感じました。そのため、彼は非常に落ち着きがなく、こちらも安心していられないのです。…計り知れない反感に対する、つきまとうような恐怖によって、いわば世間から断交した、想像しうる中で最も抑圧された人間の一人でしょう」 エルガー自身も、宗教に関してロザ・バーリーに打ち明けてたようです。「彼は宗教的偏見によって、彼のものになっていたはずの職や絶好機が、自分より能力が劣っているにもかかわらずまともに評されている人間らに奪われていったことなどを話しました。この事に関して彼が苦い思いをしているのは明らかでした。」 4.エルガーは心気症だった 精神疾患といえるかどうかは疑問ですが、病気でないときにでも病気ではないか、健康に異常があるのではと心配する症状です。ノイローゼに似ているかもしれません。芸術家のように繊細な人間にはよくあるのでしょう。マイケル・ケネディによれば、エルガーは、風邪をひいたり、目が炎症を起こしたり、歯や耳が痛んだりというのを感じていたようです。彼の友人への手紙には、突然の扁桃腺炎や頭痛を訴えるものがたくさんありました。特に創作意欲の低い時によく起こっていたといいます。 5.苦悩を乗り越え、最終的にはイギリス至上最高と称えられるようになった 「エニグマ変奏曲」を1899年に発表して以来、エルガーはもはや手の届かない存在になり、彼の評判は最高潮に達していました。エルネスト・ニューマンは1914年音楽誌で彼を「印象深い資質のある大人物」と評しています。ドイツでは、第1次世界大戦の影響もあり彼の評価は影をひそめ始めたものの、イギリス国内で彼の地位を揺るがす存在はありませんでした。のちのブリッジ、ホルスト、ウィリアムズなどの作曲家にとってもリーダー的で模範とみられていました。 6.エルガーの作品にはフランス語の題名がついたものも多い 妻アリスとの結婚に際して1888年に書いた「愛のあいさつ」には、当初ドイツ語で

エルガーのソナタは「曰く付き」?!(2017年1月17日)

先日(日曜)は京都・カフェモンタージュでのエルガーのリハーサルでした。市内全体が積雪に見舞われ、夕方も夜もずっと勢いよく雪が降っていました。 カフェモンタージュは、音楽愛好家や少々のいわゆるオタク・レベルの人たちが熱心に集まる場所です。エルガー・マニアの方もおられて、話が通じるのはとてもいいものですね。今週土曜日の公演まで残すところあと4日となりましたが、とても楽しみです。 予約URLはこちら ==> http://www.cafe-montage.com/prg/170121.html   *  * そもそもエルガーのソナタは、どんな曲なのでしょうか? 音楽は人間の生活や様々な概念を反映するものであることを以前のブログで触れました。それを理解するにあたっては、作曲者の意図を読み取ることが不可欠となります。作曲者の意図は、自身の置かれた状況、時代背景、家庭環境、過去の教育過程、物事への価値観、哲学、信念などあらゆるものが関っているでしょう。しかしそのすべては、記譜された音符や曲想表示などから以外に見つけ出すことはできません。いわゆる暗号のようなものです。なので、作曲者が意図した内容を知ることは、曲を解釈するための鍵になるわけです。 時代は今から約100年前の1918年(エルガー61歳)。この頃、すぐに終わるだろうという予想を裏切る展開で長期化した第一次世界大戦も終盤にさしかかっていました。参戦していたイギリスでも、敵国ドイツの惨たらしいありさまは国民に伝わっていました。ロンドンでは毎晩のようにドイツ軍による空襲があり、人々の家、軍事施設などが次々と焼き尽くされていきました。(私の知る限りでは、応急処置としてロンドン市営地下鉄の駅を防空壕代わりに利用し、プラットフォームを寝床にする人々も大勢いたようです。) そんな中で、人々は日が過ぎるごとに疲労困憊の状態に陥りました。生存者の多くには心が廃れていくのを感じる者もいました。 エルガーにとってこの戦争はどのように影響をもたらしたのでしょうか?著者マイケル・ケネディは、エルガーが究極の絶望感を味わったことについて述べています。若い頃から孤独を好んだエルガーですが、この時期にも都会から離れて平和な暮らしをしたいと願うようになり、サセックス州のブリンクウェルズにあるコテージ(小別荘)に落ち着くようになりました。当時に書かれた手紙には、彼の心境を的確に物語る、良き友人のシュスターへの一通があります。 「盛夏(!)と素敵な暖かいこの頃を過ごしていることだろうね。気分は良くなったが、世の中の流れにはのっていけないし、そんな気にもなれないよ。魚を少々採り、読書をし、パイプをくゆらせているが(ありがたや!)、本当に会いたいと思うのは君を含めて6人だ、もちろん君はその中でも第1人だがね …」 エルガーのソナタは1918年10月1日に完成したとあり、それらの手紙などから察すると、作曲時期は同年の8月から9月にかけてとみられます。場所は主にブリンクウェルズのコテージ。ここには、エルガーをよく知るヴァイオリニスト、ウィリアム=ヘンリー・リードが頻繁に訪れ、作曲に合わせて曲を試奏することがよくありました。ちなみに彼は後にこの曲の公開初演(翌年3月、エオリアンホールにて)にも携わっています。エルガーの妻アリスは、この作品の出来栄えに大いに喜んで、「林の魔法だわ(コテージの庭先にある林をエルガーが散歩していたことから)。とても繊細で説明しにくい。」と言っています。中でもソナタの第2楽章はこれ以上はないくらい素晴らしい出来だといいます。 曲全体を哀愁に満ちた雰囲気が覆い、作風としては初期に書かれた数々の小品に似たものを感じます。どの楽章の叙情的な旋律にも、ウースターシャーにいた頃(主に1860~70年代)の過去を名残惜しむエルガーの姿が見事に描かれています。ソナタの冒頭にあるresoluto (訳:決然とした)は、第1楽章の大胆で活力溢れた(エルガーによる説明)特徴を指しています。活気さに溢れながら、彼の作品の数々に遍在する威厳も備えているといったところです。 しかし、「ロマンス」と題された第2楽章以降には、どうやら不幸な出来事が絡んでいるようです。エルガーの手紙によれば、第2楽章は知人アリス・スチュアートが足を損傷する事故に遭ったという電報が届いたすぐ後に書かれました。エルガーは、彼女に譜面と手紙を送りました(9月11日)。冒頭は多少異国風で、その謎につつまれた奇妙な雰囲気は「気まぐれ女」(1891年作曲)と似たところもあります。そのあとにある中間部には、高貴さと感傷的性質を兼ね備えたメロディーがあり、このソナタ全体の一番の見せ場です。超自然的というか、哀愁というか、悲しさというか、言葉で表現しきれないこの感情はいったい何でしょうか? ソナタの第1楽章がホ短調で始まったのに対し、最終楽章はホ長調で始まります。重々しい空気から少し抜け出したような感じかもしれません。エルガーはこの作品をエルガー家にとっての旧友であったマリー・ジョシュアに献呈することにしました。ところが、献呈者の名前を書き入れた4日後に彼女は亡くなってしまいます。エルガーは彼女の死を偲んで、この最終楽章のコーダの前に 第2楽章(ロマンス)で用いた中間部の旋律を蘇らせています。様々な感情が入り混じっているのがよくわかります。エルガーは、それらの複雑な感情を、冒頭の広々とした爽やかな主題に始まり、ワーグナーの半音階的性質を含んだ移行部分を挟み込んで懐古調の中間部につなげ、壮大な終結部に向かって高揚させることでうまくまとめ上げようとしています。 ここまでソナタの全貌をざっと説明してきました。もちろん、これらは作曲者の心理・意図をつかむにおいては、所詮、側面の一つにすぎません。ただ、意外な一面も見えたかと思いますし、曲の全体像を把握するのに少しでも役立てばと思います。          

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